夕暮れどきのあの空の色の微妙なことといったら、たとえようもありません。
夕空の色をたとえて茜色という言い方があるけれど、そういってしまうと、
何か決まった一色に限定されてしまうようで、惜しい気がします。
むしろここで思い出すのは、クレナイという言霊です。正確にはクレナ井と書きます。
どうしてイと書かずに井と書くのか、というと、イはア行なのにたいし、ワ行に属する
のが井だからです。もちろん、これは井戸の井です。
そうすると水に関係するとすぐにわかります。
井の言霊には五つの法則があって、その第一が蒼空です。蒼は青という漢字
を借りてきてもいいのですが、志道はこちらを使っています。

井とは、じつは潮水のことなんですね。このシホミヅは、万物をからむといわれ
ます。あらゆるものに潮水がからむ。というのも、シホは水(シ)と火(ホ)であり、
それら二つがくみあいからみあうことにより万物を生ずる、そのもとであるからです。
空にあっても水。これが井の言霊の本質です。空に水がある。空の井戸。
どうしてお空は青いのと、幼い日に疑問に思った記憶はありませんか。
私はこの話をはじめて知ったとき、なんとなくわかるような気がしました。
天のことをアといいます。これはアの言霊が天だからです。そして、ア井とい
うと、空の水を意味します。空色でもあります。そこから藍色が連想されます。

さて、だいぶ前置きが長くなりましたが、話をクレナ井にもどしましょう。
空の水は一日のあいだじゅう刻々とその色を変えてゆく。目の覚めるようなさえた
青空もやがて日が傾くころには色あせ、浅黄色にうつろいゆく。
そして、日没が迫ると、赤みをましてくる。夕日に輝きて赤きを、クレナ井と云う。
原典にはそのように書いてあります。

その名の言霊を解くと、ヒクレヌア井となり、ヒクレは日暮れ、ヌはとっぷりと
日も暮れてしまったというニュアンスを表します。ア井は先にも述べたとおり、
天の井、つまり空の水を表す言霊です。
ここでヌの言霊のはたらきについて説明しておきましょう。この言霊は水火の
霊で、水が火の中に入りきり、水と火がくみ極まってその文(あや)目つまり輪郭
や文様も分からぬほどの暗さをなすことにあります。
ヌは刻限でいえば夜の八つ時(午前二時前後)にあたります。
ただし、ここは日も落ちて、人の顔もさだかに見分けられなくなる、たそがれ
どきのことですが。

クレナ井というのは、こうしたたそがれどきの、赤みをおびてグレーや墨や
藍にも混じり複雑に染まった空の水の深い色のすべてを包み込む言霊と
であると考えてみるとよいのではないでしょうか。
何色と一つに決められないほどにいろんな色が複雑に混じった複雑な色
というのがありますね。何とも形容のできない、名づけようのないものにた
いして、私たちは言葉を失い、沈黙するしかないのです。
でも、言霊は私たちのそうした心のとまどいやおののきをよそに、あの刻々
とうつろいゆく微妙な色の奥にある波動の複雑微妙なひびきをそっくりその
まま認めている、というよりもむしろその豊かさそのものの源泉であるかの
ようです。
それは天の真名井と呼ばれる宇宙根源の生命の噴出し口でもあるでしょう。
言霊とは物の名を人間の肉体頭脳で案出するなどという営みなとはいっさい
縁のないものです。
ちなみに、天子におかせられては、クレナ井という語はその色のうつろいや
すさのゆえに、ヒクレヌア井の反し(ヒクレはヘに、ヌア井はニに約まる)である、
ベニ(紅)は禁句であって、その代わりに緋と唱えたということです。
しかし、うつろいゆくことほど真実なものもないわけですね。そのなかで変わ
らぬものをしっかりと意識して生活したいものです。

夕空の色をたとえて茜色という言い方があるけれど、そういってしまうと、
何か決まった一色に限定されてしまうようで、惜しい気がします。
むしろここで思い出すのは、クレナイという言霊です。正確にはクレナ井と書きます。
どうしてイと書かずに井と書くのか、というと、イはア行なのにたいし、ワ行に属する
のが井だからです。もちろん、これは井戸の井です。
そうすると水に関係するとすぐにわかります。
井の言霊には五つの法則があって、その第一が蒼空です。蒼は青という漢字
を借りてきてもいいのですが、志道はこちらを使っています。

井とは、じつは潮水のことなんですね。このシホミヅは、万物をからむといわれ
ます。あらゆるものに潮水がからむ。というのも、シホは水(シ)と火(ホ)であり、
それら二つがくみあいからみあうことにより万物を生ずる、そのもとであるからです。
空にあっても水。これが井の言霊の本質です。空に水がある。空の井戸。
どうしてお空は青いのと、幼い日に疑問に思った記憶はありませんか。
私はこの話をはじめて知ったとき、なんとなくわかるような気がしました。
天のことをアといいます。これはアの言霊が天だからです。そして、ア井とい
うと、空の水を意味します。空色でもあります。そこから藍色が連想されます。

さて、だいぶ前置きが長くなりましたが、話をクレナ井にもどしましょう。
空の水は一日のあいだじゅう刻々とその色を変えてゆく。目の覚めるようなさえた
青空もやがて日が傾くころには色あせ、浅黄色にうつろいゆく。
そして、日没が迫ると、赤みをましてくる。夕日に輝きて赤きを、クレナ井と云う。
原典にはそのように書いてあります。

その名の言霊を解くと、ヒクレヌア井となり、ヒクレは日暮れ、ヌはとっぷりと
日も暮れてしまったというニュアンスを表します。ア井は先にも述べたとおり、
天の井、つまり空の水を表す言霊です。
ここでヌの言霊のはたらきについて説明しておきましょう。この言霊は水火の
霊で、水が火の中に入りきり、水と火がくみ極まってその文(あや)目つまり輪郭
や文様も分からぬほどの暗さをなすことにあります。
ヌは刻限でいえば夜の八つ時(午前二時前後)にあたります。
ただし、ここは日も落ちて、人の顔もさだかに見分けられなくなる、たそがれ
どきのことですが。

クレナ井というのは、こうしたたそがれどきの、赤みをおびてグレーや墨や
藍にも混じり複雑に染まった空の水の深い色のすべてを包み込む言霊と
であると考えてみるとよいのではないでしょうか。
何色と一つに決められないほどにいろんな色が複雑に混じった複雑な色
というのがありますね。何とも形容のできない、名づけようのないものにた
いして、私たちは言葉を失い、沈黙するしかないのです。
でも、言霊は私たちのそうした心のとまどいやおののきをよそに、あの刻々
とうつろいゆく微妙な色の奥にある波動の複雑微妙なひびきをそっくりその
まま認めている、というよりもむしろその豊かさそのものの源泉であるかの
ようです。
それは天の真名井と呼ばれる宇宙根源の生命の噴出し口でもあるでしょう。
言霊とは物の名を人間の肉体頭脳で案出するなどという営みなとはいっさい
縁のないものです。
ちなみに、天子におかせられては、クレナ井という語はその色のうつろいや
すさのゆえに、ヒクレヌア井の反し(ヒクレはヘに、ヌア井はニに約まる)である、
ベニ(紅)は禁句であって、その代わりに緋と唱えたということです。
しかし、うつろいゆくことほど真実なものもないわけですね。そのなかで変わ
らぬものをしっかりと意識して生活したいものです。

「フ子」(フネ)の言霊のもとが、
「アフ子」です。アは起言といって、省くことができるので、フ子つまりフネになるのです。
註・・・山口志道の言霊学ではネは子と書きます。

なぜアフ子なのかというと、これは仰向けに寝ることだそうです。
アフとは、あおぐ(仰ぐ)の古言で、アフぐから来ます。
おもしろいのは、「男子は伏寝、女子は仰寝なり」と志道がいっていることです。
どうして仰臥(ぎょうが)が女性の寝方なのか。また、男性が伏寝なのか。性交の姿を思い浮かべるか、天と地の位置関係を考えるか、それはあなたにまかせましょう。
とにかくここでは、伏寝ではなく、仰向けのアフネのほうを、海に浮かべ櫓や櫂でこぐ、あの乗り物を指す語に定め、フネという名を負わせたということに着目したいと思います。
まず形をイメージすると、仰向けに寝るということは腹を見せて寝ることですが、木をくりぬいてボート作ったら、どっちがお腹でどっちが背中か。これは簡単ですね。水に浮かべるときは伏せるわけにはゆかないので、くりぬかれた側が腹のほうになって、海に浮かべたときは天空を仰いでいるかっこうとなります。
原典は「船神は女体なり」といっています。
ちなみに帆とは、フクロの反し(hukuroを約めるとhoになるから)のホで、風を納袋(入ルルフクロ)という言霊です。

水穂伝の五十音の成り立ちの法則からすれば、このことは非常に理にかなっています。
地にあるのが陰すなわち女。
天にあるのが陽すなわち男。
水は軽くして澄みのぼり天をめぐるけれど、やがては地にくだって山海を成す。
火は重くして地に続き、大地を形づくりながら、やがて天にのぼって太陽や月や星と
なる。そこで、天は陽、地は陰となるが、互いに常に交合しながらさまざまな働きを行う
のが、水と火、すなわちイキのくみあいからみあいによりさまざまな法則を分有する言霊
であることになる。
ちなみに、
天原(アマハラ)とは、アは天、マは「向」き合うという法則の言霊、ハラは広いという
ことで、空と海とが「向伏(ムカブシ)て広大なる」つまり一方は伏し、他方はこれを受
けるという感じに出会い、溶けあってはてしなく広がるという意になる。
青海原というのは、アヲは蒼穹の蒼、ウナは言霊返しの法則でアとなり、天のこと。
つまり、天(空)も海も青一色にして互いに向き合い接してひとつであることを、アヲウナ
ハラと呼ぶという。

水と火、女と男、天と地。
それらは向き合い、調和した性質と働きを現わすために助け合う。
フネという言霊は、だから海に浮かんで、天を仰ぎ見、天地の波動が交流する
ひとつの調和した受け場ともいえるのではないかなと思ったのですが、いかがでしょうか。
空には太陽や月や星がたえず規則正しい運行のもとに軌道が描かれます。
舟に身を横たえ、空の星月に見守られながら安らかに眠りにつく。
だんだんと寒さをましてくる十一月の夜に、舟の言霊は、そんなことをイメージさせてくれるのでした。
「アフ子」です。アは起言といって、省くことができるので、フ子つまりフネになるのです。
註・・・山口志道の言霊学ではネは子と書きます。

なぜアフ子なのかというと、これは仰向けに寝ることだそうです。
アフとは、あおぐ(仰ぐ)の古言で、アフぐから来ます。
おもしろいのは、「男子は伏寝、女子は仰寝なり」と志道がいっていることです。
どうして仰臥(ぎょうが)が女性の寝方なのか。また、男性が伏寝なのか。性交の姿を思い浮かべるか、天と地の位置関係を考えるか、それはあなたにまかせましょう。
とにかくここでは、伏寝ではなく、仰向けのアフネのほうを、海に浮かべ櫓や櫂でこぐ、あの乗り物を指す語に定め、フネという名を負わせたということに着目したいと思います。
まず形をイメージすると、仰向けに寝るということは腹を見せて寝ることですが、木をくりぬいてボート作ったら、どっちがお腹でどっちが背中か。これは簡単ですね。水に浮かべるときは伏せるわけにはゆかないので、くりぬかれた側が腹のほうになって、海に浮かべたときは天空を仰いでいるかっこうとなります。
原典は「船神は女体なり」といっています。
ちなみに帆とは、フクロの反し(hukuroを約めるとhoになるから)のホで、風を納袋(入ルルフクロ)という言霊です。

水穂伝の五十音の成り立ちの法則からすれば、このことは非常に理にかなっています。
地にあるのが陰すなわち女。
天にあるのが陽すなわち男。
水は軽くして澄みのぼり天をめぐるけれど、やがては地にくだって山海を成す。
火は重くして地に続き、大地を形づくりながら、やがて天にのぼって太陽や月や星と
なる。そこで、天は陽、地は陰となるが、互いに常に交合しながらさまざまな働きを行う
のが、水と火、すなわちイキのくみあいからみあいによりさまざまな法則を分有する言霊
であることになる。
ちなみに、
天原(アマハラ)とは、アは天、マは「向」き合うという法則の言霊、ハラは広いという
ことで、空と海とが「向伏(ムカブシ)て広大なる」つまり一方は伏し、他方はこれを受
けるという感じに出会い、溶けあってはてしなく広がるという意になる。
青海原というのは、アヲは蒼穹の蒼、ウナは言霊返しの法則でアとなり、天のこと。
つまり、天(空)も海も青一色にして互いに向き合い接してひとつであることを、アヲウナ
ハラと呼ぶという。

水と火、女と男、天と地。
それらは向き合い、調和した性質と働きを現わすために助け合う。
フネという言霊は、だから海に浮かんで、天を仰ぎ見、天地の波動が交流する
ひとつの調和した受け場ともいえるのではないかなと思ったのですが、いかがでしょうか。
空には太陽や月や星がたえず規則正しい運行のもとに軌道が描かれます。
舟に身を横たえ、空の星月に見守られながら安らかに眠りにつく。
だんだんと寒さをましてくる十一月の夜に、舟の言霊は、そんなことをイメージさせてくれるのでした。
今日は七夕でした。梅雨の中休みとでもいうか、いいお天気に恵まれました。
言霊からいうと、タナハタ(七夕)とは、タは霊(たま)、ナは双(ならぶ)、ハは両(ふたつ)、
タは列(つらなる)という語となり、水と火がそれぞれ半々ずつで調和した状態です。
ハがふたつというのは、橋(両端がある)や箸(一対)、あるいは双葉とひらく葉などを思い浮かべていただけると少しはイメージできるのではないでしょうか。
水と火は陰と陽ですが、春から夏にかけて陽の氣が増して、陰の氣が潜まり、夏から秋にかけてはピークに至った陽の氣がふたたび衰え、陰の氣が増してくるといった循環の中で、ちょうど陰と陽とが釣り合い、調和したところが、七夕であるということです。
水火はイキ、火水はホシ、またカミでもあります。
そして、水が女、火が男で、水火は、メヲ(女男)でもあるのですが、天地の水火は、一年に一度くみあう(與合)ことになっていて、ホシアヒ(星合、火水合)として、女男一夜の契(ちぎり)にお祭が設けられています。
これが、七夕です。
ところで、7月7日は、旧暦では8月7日なんですね。
つまり、その日は旧七夕ということですが、ちょうど立秋にあたります。
どちらが本来の七夕であるかということになると、やはり旧暦のほうでしょう。
ということは、先に述べた言霊の理からすると、今の時季はまだ陰陽が完全に調和する手前で、いまだ火の氣が強くなってゆく途上であることになりませんか。
火と水のバランスがとれる旧暦の七夕を過ぎた頃から水の氣が増してきますが、ちょうどこの頃が海で土用波が立つ頃でしょう。
どうしても私たちは梅雨の明けやらぬ新暦の7月7日のほうを七夕とすることに慣れていますが、一年のイキ(水火)のめぐりからすると、旧暦の七夕にも大いに根拠があるような感じもしてきます。
さて、今夜は満月のはずですが、空は残念ながら曇っているようですね。
外に出て夜空を仰ぎ天の川を探すのを楽しみにしていた子供たちの心にどうか内なる星合いの光が瞬きますように。
言霊からいうと、タナハタ(七夕)とは、タは霊(たま)、ナは双(ならぶ)、ハは両(ふたつ)、
タは列(つらなる)という語となり、水と火がそれぞれ半々ずつで調和した状態です。
ハがふたつというのは、橋(両端がある)や箸(一対)、あるいは双葉とひらく葉などを思い浮かべていただけると少しはイメージできるのではないでしょうか。
水と火は陰と陽ですが、春から夏にかけて陽の氣が増して、陰の氣が潜まり、夏から秋にかけてはピークに至った陽の氣がふたたび衰え、陰の氣が増してくるといった循環の中で、ちょうど陰と陽とが釣り合い、調和したところが、七夕であるということです。
水火はイキ、火水はホシ、またカミでもあります。
そして、水が女、火が男で、水火は、メヲ(女男)でもあるのですが、天地の水火は、一年に一度くみあう(與合)ことになっていて、ホシアヒ(星合、火水合)として、女男一夜の契(ちぎり)にお祭が設けられています。
これが、七夕です。
ところで、7月7日は、旧暦では8月7日なんですね。
つまり、その日は旧七夕ということですが、ちょうど立秋にあたります。
どちらが本来の七夕であるかということになると、やはり旧暦のほうでしょう。
ということは、先に述べた言霊の理からすると、今の時季はまだ陰陽が完全に調和する手前で、いまだ火の氣が強くなってゆく途上であることになりませんか。
火と水のバランスがとれる旧暦の七夕を過ぎた頃から水の氣が増してきますが、ちょうどこの頃が海で土用波が立つ頃でしょう。
どうしても私たちは梅雨の明けやらぬ新暦の7月7日のほうを七夕とすることに慣れていますが、一年のイキ(水火)のめぐりからすると、旧暦の七夕にも大いに根拠があるような感じもしてきます。
さて、今夜は満月のはずですが、空は残念ながら曇っているようですね。
外に出て夜空を仰ぎ天の川を探すのを楽しみにしていた子供たちの心にどうか内なる星合いの光が瞬きますように。
6月も余すところ2日となりました。
田植えの季節も終わり、全国各地の田んぼの苗も育っていることでしょう。
今年は一回だけ、田植えのお手伝いができました。
これから草取りの作業があるほかは、稲自体に宿る力の発揮により、数ヶ月後に実るのを楽しみに待つばかりですね。
食卓にのぼるご飯がどんな苦労や過程を経てできてくるのかということを想像できるかどうかということが、とても大切ではないかという気がします。
何しろ一粒の籾が、千倍にも万倍にもなってゆくのはすごい生命力ですよね。
日本の気候はお米を作るのに適しているということが、どれほどありがたいことだったか。
後継者不足から休耕田が増えてゆくとしたら、残念なことです。
田んぼはお米の生産の場だけではなく、日本人の心をいやしてくれる風景でもありますから。
そして、いろいろな生物が生きる場でもありました。
近代農業では圃場(ほじょう)に草を生やすのは最もいけないことだとして、積極的に除草剤が使われてきましたが、近頃では除草剤も化学肥料も農薬も不使用の農法で米作りをする人たちが農家以外から現れてきています。
不耕起栽培も行われるようになりつつあるようですが、生き物が育たなくなった田んぼがこうして蘇生してゆくのは望ましいことだと思います。
それには、それだけ自然をよく知り、自然と対話してゆくということが欠かせなくなるといえます。
ところで、言霊の知恵からは、私たちを取り巻く自然について、ずいぶん教えられるところがあります。
田の言霊は、「水中の火の霊」であるタから、水をたたえている田に天から火が降りてきて、水の中に火が入ることにより、種籾が芽を出し、稲が育つということを教えてくれます。
これは、父の一滴の火が母の胎内の水中に垂れるといわれます。
稲という字を当てるイ子(ね)の言霊は、息のイと、根の子から成ります。
つまり、イネは息根なのです。
この息は、水と火とから成ります。水がイ、火がキ。入る息と出る息でもあります。陰陽でもあります。
これらがくみあって、調和したときの力が、ムスビの力となります。
そして、タは万物の種子をつかさどる言霊でもあり、一から百千の数をなすというのがその本質です。
タネの言霊は、タは正しい、子は根と分解できます。
正しいとは、「タダ」は「タタ」で、タが二つ並ぶこと。そして、調和すること。合うことです。
タは霊とか魂という言霊でもありますから、みたまが二つ並び、ぴったりと合うこと。それが「正しい」です。
だから、タネとは、正しい息の根ということになります。
山口志道は、『水穂伝』の中で、「君臣と云うも、乃至夫婦朋友と云うも、霊と霊と合わざれば、君臣其の君を欺き、子其の父を欺く等の如し」」といっています。
絶妙のバランスや和合から生まれるものこそが本当の平和であり、いのちの創造を可能にするものなのだということを暗示して、考えさせられる言霊の法則です。
田植えの季節も終わり、全国各地の田んぼの苗も育っていることでしょう。
今年は一回だけ、田植えのお手伝いができました。
これから草取りの作業があるほかは、稲自体に宿る力の発揮により、数ヶ月後に実るのを楽しみに待つばかりですね。
食卓にのぼるご飯がどんな苦労や過程を経てできてくるのかということを想像できるかどうかということが、とても大切ではないかという気がします。
何しろ一粒の籾が、千倍にも万倍にもなってゆくのはすごい生命力ですよね。
日本の気候はお米を作るのに適しているということが、どれほどありがたいことだったか。
後継者不足から休耕田が増えてゆくとしたら、残念なことです。
田んぼはお米の生産の場だけではなく、日本人の心をいやしてくれる風景でもありますから。
そして、いろいろな生物が生きる場でもありました。
近代農業では圃場(ほじょう)に草を生やすのは最もいけないことだとして、積極的に除草剤が使われてきましたが、近頃では除草剤も化学肥料も農薬も不使用の農法で米作りをする人たちが農家以外から現れてきています。
不耕起栽培も行われるようになりつつあるようですが、生き物が育たなくなった田んぼがこうして蘇生してゆくのは望ましいことだと思います。
それには、それだけ自然をよく知り、自然と対話してゆくということが欠かせなくなるといえます。
ところで、言霊の知恵からは、私たちを取り巻く自然について、ずいぶん教えられるところがあります。
田の言霊は、「水中の火の霊」であるタから、水をたたえている田に天から火が降りてきて、水の中に火が入ることにより、種籾が芽を出し、稲が育つということを教えてくれます。
これは、父の一滴の火が母の胎内の水中に垂れるといわれます。
稲という字を当てるイ子(ね)の言霊は、息のイと、根の子から成ります。
つまり、イネは息根なのです。
この息は、水と火とから成ります。水がイ、火がキ。入る息と出る息でもあります。陰陽でもあります。
これらがくみあって、調和したときの力が、ムスビの力となります。
そして、タは万物の種子をつかさどる言霊でもあり、一から百千の数をなすというのがその本質です。
タネの言霊は、タは正しい、子は根と分解できます。
正しいとは、「タダ」は「タタ」で、タが二つ並ぶこと。そして、調和すること。合うことです。
タは霊とか魂という言霊でもありますから、みたまが二つ並び、ぴったりと合うこと。それが「正しい」です。
だから、タネとは、正しい息の根ということになります。
山口志道は、『水穂伝』の中で、「君臣と云うも、乃至夫婦朋友と云うも、霊と霊と合わざれば、君臣其の君を欺き、子其の父を欺く等の如し」」といっています。
絶妙のバランスや和合から生まれるものこそが本当の平和であり、いのちの創造を可能にするものなのだということを暗示して、考えさせられる言霊の法則です。
私たちが生まれてこの方、日常なにげなく使っている日本語には、じつに玄妙不可思議な法則があるようです。なかでも深秘中の深秘ともいうべきものが、「水」と「火」の相関関係の法則なんですね。あいうえお五十音のすべてが、この水と火の働きに対応しています。
たとえば、マ行は「火中の水の灵(みたま)」として、「ム」の言灵(現代ではふつう言霊と表記していますが、江戸期の『水穂伝』の表記に従っています)には、「無」の働きがあります。水の入った鼎(かなえ)つまり金属の三脚のついた器を火で炙ります。そうすると、その熱でやがて水が蒸発してなくなります。これを水が火に凝る結果だというんですね。凝るというのは、言灵の書では基本的な用語として「搦(から)む」と並んでよく登場する「與(く)む(与えるの旧漢字)」ということでもあり、よく混ぜあわせ、ふたつのものをなじませるという感じでしょうか。もうちょっと親しみのある言葉も使われており、「睦む」すなわち仲良くするということで、陰陽、天地、男女などなど、すべて両極性が、與み搦むことにより、調和し、何かが生まれたり、そのものの働きが十全に行われたりするのです。
ここに、「凝る」状態を促進させる火の働き場所があるわけです。凝りすぎると消散します。種子としてのお米の籾がふくらんできて発芽するには、火の働きが必要です。それが、やがて夏の時期を過ぎて、火が盛んになりすぎた結果、実るとともに、水気がなくなって枯れてきます。草木は皆この道をたどります。「無」を「ナキ」也と読ませて、「ナ」は「凝る」こと、「キ」は輝く火の灵ということで、火の作用で水が凝集し、ついになくなる。これは本当になくなるということではなくて、形を隠すと考えたほうがいいのですが。「形をなす物は水にして、形をなさしむる物は火也」常に陰の水と陽の火とが互いに関わっている。それらは、どっちも必要なんだし、互いがバランスを保ち、働いています。陽が極まり、陰が増してくる。陰が極まれば、また陽が現れてくる。相関関係と先に述べたのは、そのことです。一日の昼と夜も、四季のめぐりも、人の一生もすべてこの法則の下にあるわけです。
あるとき、自分は水気の多い人間なので、流動し拡散しがちであることに気づきました。諸々の物事の間の関係性を見出し、連想をたくましくして編集に生かすところにアイデアを生むにはいいのですけどね。けれども、どうも要所、要所で、選択し、固定した(fixed)状態にし、決めてゆく面がおろそかになりがち。いわば結び目です。「ム」には「無」のほかに全部で九つあり、その中に「結」也とあります。そこで、凝り固める火の働きの強い人と組むと、物事が現実化して捗りやすい。
こうした強みも弱みも、自覚したうえで、よい協力ができればよいのですが。常に実験と試行錯誤の繰り返しであり、経験を通して、他に依存せずに自己完成してゆくということですね。
たとえば、マ行は「火中の水の灵(みたま)」として、「ム」の言灵(現代ではふつう言霊と表記していますが、江戸期の『水穂伝』の表記に従っています)には、「無」の働きがあります。水の入った鼎(かなえ)つまり金属の三脚のついた器を火で炙ります。そうすると、その熱でやがて水が蒸発してなくなります。これを水が火に凝る結果だというんですね。凝るというのは、言灵の書では基本的な用語として「搦(から)む」と並んでよく登場する「與(く)む(与えるの旧漢字)」ということでもあり、よく混ぜあわせ、ふたつのものをなじませるという感じでしょうか。もうちょっと親しみのある言葉も使われており、「睦む」すなわち仲良くするということで、陰陽、天地、男女などなど、すべて両極性が、與み搦むことにより、調和し、何かが生まれたり、そのものの働きが十全に行われたりするのです。
ここに、「凝る」状態を促進させる火の働き場所があるわけです。凝りすぎると消散します。種子としてのお米の籾がふくらんできて発芽するには、火の働きが必要です。それが、やがて夏の時期を過ぎて、火が盛んになりすぎた結果、実るとともに、水気がなくなって枯れてきます。草木は皆この道をたどります。「無」を「ナキ」也と読ませて、「ナ」は「凝る」こと、「キ」は輝く火の灵ということで、火の作用で水が凝集し、ついになくなる。これは本当になくなるということではなくて、形を隠すと考えたほうがいいのですが。「形をなす物は水にして、形をなさしむる物は火也」常に陰の水と陽の火とが互いに関わっている。それらは、どっちも必要なんだし、互いがバランスを保ち、働いています。陽が極まり、陰が増してくる。陰が極まれば、また陽が現れてくる。相関関係と先に述べたのは、そのことです。一日の昼と夜も、四季のめぐりも、人の一生もすべてこの法則の下にあるわけです。
あるとき、自分は水気の多い人間なので、流動し拡散しがちであることに気づきました。諸々の物事の間の関係性を見出し、連想をたくましくして編集に生かすところにアイデアを生むにはいいのですけどね。けれども、どうも要所、要所で、選択し、固定した(fixed)状態にし、決めてゆく面がおろそかになりがち。いわば結び目です。「ム」には「無」のほかに全部で九つあり、その中に「結」也とあります。そこで、凝り固める火の働きの強い人と組むと、物事が現実化して捗りやすい。
こうした強みも弱みも、自覚したうえで、よい協力ができればよいのですが。常に実験と試行錯誤の繰り返しであり、経験を通して、他に依存せずに自己完成してゆくということですね。





